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2007年01月15日
性別を越えた“おんな”の魂
2006年の年末、久しぶりに劇団「態変(たいへん)」の舞台を見た。今回は座長の金満里さんのソロ公演。「態変」は障害を持つ人々で結成された劇団で、僕が最初に見たのは20年ほど前だった。今回と同じ「タイニーアリス」という新宿にある小劇場でのその舞台は、僕を打ちのめすほどの衝撃だったことを覚えている。体の自由がきかないまま舞台に運ばれその姿をさらけ出しながらのパフォーマンスは、それまで見たどんな演劇よりも心揺さぶる力に満ちていた。
僕は“追っかけ”になり、何度か金満里さんと話す機会もあった。そこで感じたのは、一言でいうならそれまで見てきた演劇やダンスなどがみな作り物でしかなかったということ。そのジャンルでいうなら、僕が唯一心を真っ新にして観に行きたいと感じる舞踏は、大野一雄の舞台だけだった。大野一雄が踊り出すだけで理由の分からない涙がこみ上げてくるのは不思議だった。そこで僕が感じたのは“作り物”を越えてしまった何かだった。しかし、芸術とはそもそも“作り物”の世界だ。その芸術が“作り物”を越えたらどこに行ってしまうのだろうか。この思いは、一方の「態変」の舞台を観る度にも抱いていた。ところが、ある時、大野一雄と「態変」がジョイントする舞台が実現した。必然の出会いだったのだろう。僕にとっては夢のような時間だったが、その中でこれはきっと何かが起きるにちがいないと感じた。
それからしばらく「態変」の舞台を観ることはなかった。そして、今回、知人からの連絡がきっかけでひょっこり出かけて行った。そして1時間たらずのその舞台を観ながら、大野一雄とのジョイントの後、金満里さんに何が起きたのか、その答えを僕なりに見たような気がする。言葉でいうなら、“美”のエネルギーとしかいいようがないものに包み込まれるような舞台だった。ここで僕が“美”というのは、ハッとして昨日までの自分のすべてが一新されてしまうような感覚を味わうことといったらいいだろうか。善も悪も、綺麗も醜いもない。日常の中でいつの間にか曇っていた感覚のフィルターが、思い切り水をかけられ透明感を取り戻させられるような何か。
金満里さんは、今回の舞台『月下咆哮』に寄せた文章の中で次のように語っている。
「私は大野一雄さんの踊りに触れ、男の中にある女性を演じるその演技に衝撃を受けた。……宇宙をも響かす心の襞のようなもの、を差し出されたような気がした。……今度は私の女からのおんなを演じなければならない番だと思う。それは単に悪女や聖母といった、二律背反的な世間から作られた女像ではないものとして……」。(抜粋)
それを僕なりに解釈すれば、人類の原初であり、同時に人間の完成形であるところの“おんな”の存在であり、「男」「女」を越えて、すべての人間の心に孕まれている生命力ではないかと感じる。人類そのものが宇宙から産み落とされた不自由な存在……。人は人間型の有限の生命を与えられ、その限界の中でもがき苦しみ、それゆえに自らの内に心という無形の命を孕み繰り返し再生する。それは、性別を越えた魂の“おんな”だ。大野一雄の舞台に触れる度に僕に涙を流させていたのは、きっとその魂の声だった。その響きは大野一雄から金満里の舞台へと巡り、僕の共鳴板をかき鳴らし続ける。
金満里の舞台「月下咆哮」より スケッチ:末永蒼生
投稿者 heart-color : 2007年01月15日 17:31
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